とある建物の前にざわめく思いを抱えながらひろゆきは立ちつくしていた。
脇にはニヤニヤと意地の悪い笑みをたたえた初老の男、赤木しげるがいる。
「4番地-4エスポワール…ってここですよね?」
「ああ」
「間違いないですよね」
「ああ」
「もしかしたら同じ名前のエスポワールってマンションが別の場所にあって、何らかの手違いで間違った住所だったってオチでしょ?そうでしょ?ねえ!!」
「んな訳あるか。さ、いつまでもこんなクソ寒い所に突っ立ってないで早く中に入ろうぜ。」
眼前の建物に軽い足取りで歩み寄る赤木の背中をうらめしげにジロリと睨んだが、効果は全くない。
いつもよりも上機嫌なその様子を見て、赤木の新居に過剰な期待をしていた事、それが裏切られかつ見透かされていた事に気づき、恥ずかしいやら悔しいやら訳のわからない敗北感にさいなまれた。
簡単に見積もって築40年は越しているこの木造アパート・エスポワールは、二階建てで全六部屋というこじんまりとした構成だ。
一見した所、端的に言ってものすごくボロい。
壁に描かれていた黒いゴシック体の”エスポワール”の文字が半分ほど剥がれかかっており、何とも言えないわびしさを演出している。
赤木は途方に暮れるひろゆきに構わず、アパートの階段を登って二階の部屋に至る公共スペースに進んだ。
脇の鉄柵に手を触れると随分と酸化で錆びきっていたのか、ぼろぼろと茶色の鉄くずが崩れ落ち、バラバラと地面へ降り注いだ。
「ひろっ早く来いよ!」
剥がれかかっている鉄くずにも構わず、赤木が柵から身を乗り出すものだからひろゆきはあわてて階段を駆け上った。
「ちょ…赤木さん!それ腐ってるんですから危ないですよ!!」
小走りで二階の公共スペースに踏み居ると、202号室の新聞受けに郵便物が溢れているのが目にとまった。
地面にこぼれていた葉書を拾って郵便受けに戻そうとしたひろゆきの手が一瞬止まる。
催促状、○○金融、そんな単語が目に入った気がするが気のせいだと、郵便受けに突っ込むが、似たような内容の葉書が大量に差し込まれていてひろゆきはため息を付いた。
「何しょげてんだ。」
赤木はポケットからイーピン牌のストラップが付いた鍵を取り出して、203号室の鍵穴に差し込んだ。
「あきれてるんですよ…。近所に不良は彷徨いてるわ、新居はボロボロだわ、隣の住人は多重債務者だわで最悪の環境じゃないですか。こんな所に住もうなんて狂気の沙汰ですよ!」
「ん?俺はこんな所に住もうなんて思っちゃいねえよ。近くに酒飲む所や賭場も無いなんて不便な場所なんて冗談じゃねえ。」
「そこが問題かよ!…ってならどうしてここを借りようだなんて思ったんですか?」
「それが俺にも上手い事説明出来ないんだが…」
先ほどから何度も鍵を回し、ノブを引くを繰り返している赤木だがドアは一方に空く気配がない。
「鍵ですらまともじゃないなんて、すばらしい物件ですね。」
嫌味を放って見せたが、赤木の目線はひろゆきの向こう、二階の公共スペースの入り口に立つ人物を見ていた。
「ッ!!」
ひろゆきは思わずひっと出そうになった悲鳴を喉で飲み込んだ。
不敵に笑いながらゆっくりとこちらへ歩いてくるのは、先ほど、不良相手に絡まれていた少年だった。
路地であの現場を目撃した後、ひろゆきは近くの電話ボックスで110番通報して、やや大げさに”少年による傷害事件が起こった”という旨を伝えた。
少年を助けたかったのは山々だったが、刃物を持った不良相手にうまく立ち回る自信もないし、かと言って赤木を頼っても事件が大きくなり収まりがつかなくなる可能性が大いにある。
何よりも赤木にこんなくだらない勝負をさせたくなかった。
そこで警察を呼ぶという選択だが、これも一つ問題があった。
闇の世界に君臨した博徒として、893・フィクサーなどと密接な繋がりがある赤木が目撃者として警察と顔を合わせるのはうまくない。
叩けばいくらでも埃が出る身であるから、別件で任意同行という面倒な事態にだってなりかねないのだ。
この場は赤木に立ち去らせて、自分とあの少年で警察が来るまでの時間を稼ぐ。
そう決意した瞬間に聞こえたあの銃声。
遠目から不良の一人ががくりと崩れ落ちるのが見え、銃を構えた少年の凍てついた視線がひろゆきを射抜いた。
「ひろ、逃げるぞ。」
「えっ…ちょっと!!」
楽しそうな笑みを浮かべて走り出す赤木を、ひろはあわてて追った。
「あいつ…どうして…」
「もうすぐサツがここに来てあいつはしょっ引かれる。銃で人を撃ったとなりゃあ、ガキとはいえどタダじゃ済まないさ。…そうら来た!」
ひろゆき達の背後に迫る様にパトカーのサイレンが遠くから近づいてくる。
端から見たらまるで罪を犯した者がパトカーから逃げている様に見えるだろう。
「何で銃なんか持ってるんだよ!」
突然降りかかってきた災難で何故走り回らなければならないのかと、ひろゆきは理不尽さにわめいた。
「さっきあいつは俺たちの顔をしっかり見たよな。奴がサツから逃げおおせたとして、人を撃った場面をバッチリ目撃しちまった俺たちを殺しに来るかもしれないぜ。ククク…」
ひろゆきは背筋を凍らせて振り返るが、少年の追ってくる様子はない。
まだ不良と揉め合っているのだろう。その間に警察が現場に到着して、不良達と少年の身柄を確保してくれればひとまず難を逃れられる。
そうなるはずだったのに…
「何故逃げた?」
少年の年不相応の底知れぬ迫力に一瞬気圧されたひろゆきだったが、伊達に強面のゴロツキ相手に麻雀の打ち回しをやったという経験はしておらず、かろうじて冷静さをつなぎ止めた。
「拳銃持っている奴なんておっかないし逃げるのは当然だろ?そんな事より…」
ひろゆきは先ほどから不自然に背に回された少年の右腕を見とがめる。
「後ろに持っているものは何だ?見せてみろ。」
ひろゆきの位置からは完全には少年の右腕の先は見えないが、おそらく拳銃が握られているのだろう。
そう考えると冷静さを死守しようとする心とは裏腹に指先がわずかに震える。
「拳銃を持つ相手に対してはアンタみたいにおびえるのが普通だが、そうでない人間は何か決定的な勝算を抱えている。もしくは…」
その瞬間少年はひろゆきに体当たりして、背中からそれを勢いよく突き出した。
「バーン」
少年の口から発声された間抜けなその擬音にひろゆきの目が一瞬泳ぎ、やがて怒りに染まった。
突き出された右腕の先は銃の形を模した様に手の指が折られ、人差し指が赤木に向けられていた。
「下らねえブラフだな。」
そう言いながら取り出したマルボロに火を付ける赤木に、突き出した右腕はそのままで少年はゆっくりと近づく。
突然のタックルに体勢を崩していたひろゆきは、立ち上がって赤木と少年の間に割って入った。
「いい加減にしろッ!このガキッ!」
「まあ落ち着けよひろ。いい加減寒い中で突っ立ってるのもしんどいんだ。ひとまず中でゆっくり話し合おうや。」
「何言ってるんですか赤木さん!こんなトチ狂ったガキと一体何を話そうっていうんですか!」
”赤木”という単語を聞いて少年は今まで保っていた不敵な表情を崩した。
「赤木…赤木しげる…」
その口から飛び出した言葉はひろゆきをハッとさせた。
「お前…どうして…赤木さんの名前を」
「赤木しげる。俺の名前だ。」
確かにそう名乗った少年の顔を改めて凝視する。
赤木と同じ白髪の髪を持ち、瞳は鋭く同じ茶色。
そうだ、年齢こそ違えど、両者は似ているのだ。
(つづく)
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